稲作文化

浮き稲と呼ばれる稲は、水の深さに応じて10m以上伸びると言われています。
そして、どんな環境にも適用できる強さと味の良さそして、保存の効くことが、麦と並ぶ世界最大の食物に押し上げました。

稲作は約8,000年前インドのアッサム地方からヒマラヤ山脈東南の麓、中国雲南省の辺りで始まったとされています。
水辺に生えていた野生の稲を集めて食べていたのが始まりで、そのうち自分達で種を蒔き刈り取るようになったのです。

日本には、縄文時代末期に九州北部に伝わったと言われています。
小倉南区の城野遺跡には、弥生時代終わり頃の集落が丸ごと発見されています。
恐らく、弥生人も足立山を眺め紫川へと続く土地で稲作をしていたのでしょう。

米は、日本の長閑な気候も手伝って瞬く間に日本中に伝わりました。
縄文時代は、保存できる食料が殆どなく、米は保存食として重宝されたていて、食べ方は現在とは異なり、煮たり蒸したりしていたようです。

弥生文化を紐解く重要な遺跡として、佐賀県の吉野ケ里遺跡があります。
この遺跡は、分散的集落である村が誕生し、堀を巡らせた国へと発展した場所です。
集落の入口には門が置かれ、住居は深い堀や柵で囲まれ、天高く建てられた櫓には見張りを立てて外敵の侵入に備えていました。

また、福岡県板付遺跡にも弥生時代前期の遺跡があります。
集落の周りには水田が作られており、縄文晩期の北部九州では、本格的な水田を使った水稲栽培が行われていました。
弥生時代の遺跡からは、稲作に関わる品々が数多く出土していて、弥生文化が米への強い執着を持っていたことが伺えます。

本格的な稲作の始まりを契機に、人々の間には支配や非支配、貧富の差が必然的に生まれました。
それは、作物を貯蔵し、保存をすることが可能になったからです。
当時、食料は財産とも言え、それを蓄積できるとういうことは、貧富の差の拡大を意味していました。

白米を食べるようになったのは、精米技術が発達した江戸時代からで、それまでは玄米が中心でした。
鍬などの鉄器が使われるようになると、作物の収穫量が飛躍的に伸び、人による人の支配が始まったとされています。
敵対する勢力を武力によって制圧するための武器もこの頃から作られています。

そうして、階級社会が生まれていったのです。
稲作をしていなかったら、もっと違う社会が生まれていたのかもしれませんね。

米離れが進み洋食が好まれる風潮がありますが、最近では米粉からパンやお菓子を作るメーカーも出てきました。
もっと日本の美味しい米を見直して欲しいものですね。

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